桃山南口にて

小学校2年生から4年生くらいまでの間、時たま学校を午前休みして通った小さな診療所がある。

といっても病気だったわけでも虚弱体質だったわけでもなく、 母に連れられるがままひと月かふた月に一度、 出町柳駅から京阪本線に乗り、中書島宇治線に乗り換えて桃山南口のN医院に通うのがある種の習慣であった。

N医院は個人の小児科医院で、N先生1人と日替わりの看護師さん1人いるだけの小さな診療所なのだが、 建物は平屋の大きなお屋敷でお宅の一部を診療に使っていたようだ。 お庭には侘助や乙女椿といった低木が生えていて、帰り際に一輪ハサミで切って持たせてくれたりもした。

N先生は初めて会った頃から既に一般的な定年の年齢は越していて祖母と同世代のはずだったが、 黒々とした短めの髪にパーマをかけ、小柄ではあるが細すぎない身体に白衣をまとい、 何を言うにせよ簡潔でスッパリ断言するような物言いが幼心に心地良かった。

N先生と母、そして私は親類関係であったが、様々な事情で公な付き合いはしづらい、といった背景があり それでも何らかの形で接点を持つべきであると母は考えたのだろう。

当時の自分が、諸事情をどれくらい理解できていたのかは定かでないが 子供ながらも、何か意味のある事柄であることは合点していて、 母とN先生と私が共犯者として秘密裏に時間を共に過ごしていることに緊張感と強い結びつきを感じていたのだった。

そんな関係も思えば2-3年というごく短い期間だったようだ。 中学受験で忙しくなるにつれて足が遠のき、そのまますっかり会わなくなってしまった。 いつの間にか先生は亡くなり、そのことを知ったのも随分後の話だ。

数年前、京都に帰省したついでに桃山南口の駅に降り、N医院を見に行ったことがある。 駅の近くにあった大きな歩道橋は老朽化で撤去され、たまにお菓子を買った個人商店も別のお店になっていたが、 N医院は昔と変わらずそこにあり、お庭も定期的に手入れされてるようだった。 それでもかつての機能を失ったお屋敷はよそよそしく、静けさだけが満ちていた。

なぜN先生のことを書いているのかというと、それは意外な形での再開がつい2週間ほど前に訪れたからだ。 東京に訪れた母から、お土産と一緒に「粗品 N」と書かれた箱を渡された。 母曰く、私が結婚する際のお祝いにとN先生から預かっていたとのこと。

箱の中に入っていたのは、淡いピンクに花の絞りが入った風呂敷と、先生の名刺。

(みな)