2022年3月27日 (日)

3月最後の日曜日。 随分と暖かくなった。コートを羽織らないだけでこんなにも身体が軽い。 2階の窓から見えるクスノキが、風が吹くたびに紅葉した葉を落としている。 そんなに珍しい樹でもないのに、彼等が春、新しい葉を芽吹きつつ葉を落とすなんて知らなかった。

遅めの昼ごはんをなか卯で済ませ、霜降銀座に紅茶を飲みに行く。 はじめてカトルカールを食べた。

常連のおじさんが、今日も用紙に字を埋めている。 「悪の教典」を読みながら、横目で腕の動きを見る。横書きのようだ。 頭の中に完成図が出来上がっているのか、迷いなく一定のペースで書いていて、なんだか降霊術みたいだなと思った。 紙に書くタイプの作文を長らくやっていない。

スターフルーツへ。野菜が安かったので、色々買ってから魚壮へ。 エビを眺めていて、野菜を詰めたはずのスーパーの袋がないことに気づく。 リュックに詰めて、重い野菜だけ袋詰したけど、そのまま置いてきてしまったのかもしれない。 戻って探したものの見つからず、仕方ないのでレタス等買い直す。 同情したお兄さんが、少しまけてくれた。

魚壮に戻って、イカ2杯さばいてもらった。 今夜はシーフードカレーにしようと思う。

Godotを待ちながら

私は、多くのせっかちな関西人同様、待つのが好きではない。 1時間待つローカル電車より、3minおきに来る山手線の方がいいし 2時間待ちがざらなテーマパークより、さくさくアトラクションを回れる遊園地の方が好きだ。 マックはモバイルオーダーで待ち時間を極力減らしたい。

人は何かを待っている間、大抵は待つ対象に対して直接介入することができない。 ただ、その時が過ぎるのを、ぼんやりと、あるいは本を読んだり仕事をしたりしながらやり過ごす。 待つという行為が、どこか受動的で消極的なニュアンスを帯びているのはそのためだろう。

先日、夫と2人で映画『ドライブ・マイ・カー』を観た。

『ドライブ・マイ・カー』あらすじ 舞台俳優であり演出家の家福(かふく)は、愛する妻の音(おと)と満ち足りた日々を送っていた。しかし、音は秘密を残して突然この世からいなくなってしまう――。2年後、広島での演劇祭に愛車で向かった家福は、ある過去をもつ寡黙な専属ドライバーのみさきと出会う。さらに、かつて音から紹介された俳優・高槻の姿をオーディションで見つけるが…。 喪失感と“打ち明けられることのなかった秘密”に苛まれてきた家福。みさきと過ごし、お互いの過去を明かすなかで、家福はそれまで目を背けてきたあることに気づかされていく。(映画『ドライブ・マイ・カー』公式サイトより)

そんな家福が映画の序盤で演じていたのがサミュエル・ベケットの戯曲「ゴドーを待ちながら」である。 残念ながらこれまで接する機会がなかった(戯曲や演劇の基礎的な教養は身につけたいものだ)のだが、先日のアフター6ジャンクションで「ゴドーを待ちながら」の新訳にまつわる話が取り上げられていたのが中々興味深かった。

ちなみにゲストで出演されていたベケット研究者の岡室美奈子先生は、司馬遼太郎の愛蘭土紀行に通訳の留学生として登場されている。数年前に本書を読んだ際、興味本位で「司馬遼太郎の本に出てきた女子学生いま何をしているんだろう?」と調べたら立派に早稲田大学演劇博物館館長になられていて、以来Twitterを追いかけていたのでラジオでお声を聴けたのはまた嬉しかった。

ゴドーを待ちながら、のあらすじはこうだ。

ゴドーを待ちながら』は2幕劇。木が一本立つ田舎の一本道が舞台である。 第1幕ではウラディミールとエストラゴンという2人の浮浪者が、ゴドーという人物を待ち続けている。2人はゴドーに会ったことはなく、たわいもないゲームをしたり、滑稽で実りのない会話を交わし続ける。そこにポッツォと従者・ラッキーがやってくる。ラッキーは首にロープを付けられており、市場に売りに行く途中だとポッツォは言う。ラッキーはポッツォの命ずるまま踊ったりするが、「考えろ!」と命令されて突然、哲学的な演説を始める。ポッツォとラッキーが去った後、使者の少年がやってきて、今日は来ないが明日は来る、というゴドーの伝言を告げる。 第2幕においてもウラディミールとエストラゴンがゴドーを待っている。1幕と同様に、ポッツォとラッキーが来るが、ポッツォは盲目になっており、ラッキーは何もしゃべらない。2人が去った後に使者の少年がやってくる。ウラディミールとエストラゴンは自殺を試みるが失敗し、幕になる。(Wikipediaより)

要するに、ウラディミールとエストラゴンの2人はゴドーを待ち続けるも、ついぞゴドーが来ることはない。ゴドーが何者であるか、なぜ2人がゴドーを待っているのかも明かされない。そのため、不条理劇の代表作と言われている。

岡室先生曰く、ゴドーを待ちながらは、絶望的な物語、死に向かう物語、と称されることも多いという。 「しかし、別の捉え方もできるのではないか?」という思いが(前の翻訳から半世紀経っていて現代の感覚との乖離が激しいからというのも理由として上げていたが)先生を新訳の執筆に駆り立てた。 「ポゾーとラッキーは、第一幕では支配者と被支配者という関係でした。しかし第二幕では、ポゾーは目が見えなくなってて、ラッキーは喋れなくなっている。それは不幸なことなようで、しかし2人は支配者と被支配者という関係を脱してより人としての関係性を結べたのです(大意)」 さらに話は、上演されてきた土地に移る。 「ゴドーを待ちながら」は紛争地や災害が起きた場所で上演されてきたという。戦争や災害は、とりわけ市民にとっては、不条理極まりない出来事だ。 どうにもならない、待つしかないという状況において、待ち続けるというその行為そのものに、希望を見出すこと。アクティブであることが美徳とされる社会において、アクティブでないことに強さを見出すこと。解釈の余地は複数残しながらも、宇多丸さんや日比さんとのとの掛け合いにおいてこのような主張を軽やかに展開されていたのが印象的だった。

ところで「ゴドーを待ちながら(原題En attendant Godot)」の「ゴドー」はGod(神)と解釈されることもあるようだ。その主張通り無粋を承知でタイトルを置き換えるとすると「神を待ちながら」となる。実際、聖書の中でも「神/主を待つ」人々は頻繁に描かれる。

イザヤ40:31 もし神を待つなら、神は私たちの力を新しくしてくださいます。

詩篇37:9  悪を行なう者は断ち切られる。しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。

そしてただ「神/主を待つ」ことは辛い。神を信じること=待つことなのだろうけど、それでも「神/主を信じる」以上に「神/主を待つ」という言葉は切実で、苦難と忍耐を伴うことであるような気がする。

ローマの信徒への手紙 5:3 わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、 練達は希望を生むということを。

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先日、「Mさんが帰天されました」というLINEが母から届いた。 Mさんは、私が小さい頃に通っていた教会で知り合った女性で、母よりは4つか5つ年上のクリスチャンだった。上京してからは一度も会っていないが、折に触れて合格祝いや結婚祝いを贈ってくれる律儀な人だった。母とも長く親交を深めてくれていたようだ。

最後の数時間、Mさんは息子のT君、数人の親しい友人(母もこの中にいたそうだ)と共に過ごしたと聞く。闘病期間は辛いことも多かっただろう。それでも信心深い人だったから、天に帰るその日まで、希望の灯が彼女をわずかでも照らしてくれていたのなら、と願う。

ただ二人の関係性を抱きしめ合えるなら

10年くらい前のよく晴れた冬の日、友達と山梨に向かうクルマの中で、「結婚式の前夜に恋人と聴きたい曲」というテーマでイチオシの音楽をかけ合う遊びをしたことがある。

サブスクの音楽配信サービスなんてなかった当時、僕たちはそれぞれのiPodをカーステレオにつないで、下手クソなラジオDJよろしく銀杏BOYZACIDMANをかけ、とうとうとその良さを語ったのだった。「これは恋人じゃなくて友達と聴きたい」とか、「別れた元カノとだったらこれを聴きたかった」とか。

小さなレンタカーはナイーブで無知な僕たちを乗せて、紅葉が少しだけ残った中央道をすいすい進んだ。  

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先日結婚式を挙げた。素晴らしい式をさせていただいたことへの感謝の気持ちの一方で、結婚という制度への違和感は今も残っている。

それは、愛するパートナーとの豊かで繊細な関係性が夫婦という記号化された関係性に回収されてしまうことへの忌避感であり、

家族でありたいと願う人たちを法が線引して一部の人たちを家族だと認めないことへの罪の意識でもある。(差別の片棒を担いでいるように思えてくる。まるで自分が、名誉白人になって喜んでいるアパルトヘイト時代の日本人にでもなったかのように。)

それでもいろいろな人に祝福してもらうのはとても嬉しかったし、この複雑な感情をよく理解してくれる妻のことを尊敬している。結婚かくあるべし・家族かくあるべしみたいな全ての規範に噛み付いたり愛想笑いしたりしながら、周囲や二人のあいだの関係性を模索していきたい。婚姻届はさしずめそんな戦友同士の血判状だったのかもしれない。

姓はじゃんけん30本勝負で決めて(妻の姓になった)、ウェディングケーキは妻が大きいスプーンで食べた。婚姻届は色々あって九州の離島で出した(本当に色々あったのだ)。 式場でソウルダンスを踊った。80年代のソウルミュージックと奥さんのパンツドレスが最高にマッチしてた。  

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10年前の山梨に向かうレンタカーで、誰かがYUKIの曲をかけたのを覚えている。僕たちはよく晴れた冬の中央道を疾走しながら声を張り上げて歌った。「間違いだらけと判っていても 二人は進んでいく」。

違和感も嬉しさも清濁併せ呑み、ときに声を上げ、ときに藪をかきわけて、ただ二人の関係性を抱きしめ合えるなら、死がふたりを分かつまで一緒にいたいと思うようになった。

間違ったり後悔したりするのもきっと楽しいだろう。

アカメガシワの見える窓

君たちがはじめて来たときのことをよく覚えている。いくつ物件を見てきたのか、不動産屋は少しくたびれた顔をしていた。どんな赤ん坊も泣き出しそうな冷たく暗い雨の日で、がらんどうの401号室は客人をもてなすにはいささか冷えすぎていた。君たちのうち一人がコートを着たまま上がってきた、不動産屋に差し出されたスリッパを履いて。

あの日、君たちはその小さな携帯電話の画面越しにずっと話していたね。それがインターネットを介した国際通話だったと知ったのは、君たちが住み始めてからだ。君たちは二人でここに来た。一人はその足で、もう一人は遠くの国から小さな画面越しに。君たちがここで暮らし始めたのは、それからすぐのことだった。

これまでの客人に比べて、君たちはよく僕のところで過ごしてくれた。ちっとも外出せずに二人でずっと室内にいた時期もあった。君たちは遠い国から送られてきた絵葉書や、それぞれが撮った人や鳥の写真を僕の壁に飾った。君たちは知らないだろうが、玄関の外に飾られている写真を、じっと眺めて帰る郵便配達員もいたんだ。その度に僕は誇らしい気持ちになった。

君たちは僕のもとで暮らす他の家族にも優しかった。外階段の踊り場に住むスズメ一家の末っ子が、掃除場の水たまりから出られなくなったことがあったね。君たちのうちの一人が見つけて、彼を乾かして暖めてくれた。その一家がアカメガシワの木でする巣立ちの練習も、君たちはよく台所の窓から見守っていた。君たちは僕と暮らした三年間で、二人の間の愛だけでなく、君たちを取り巻く世界への愛も育んでいたんだ。

もうすぐ君たちは僕のもとを離れ、新しい町へ越していく。君たち二人が愛し合う声も、すれ違って落とす涙も、食材を切る音も、鉄鍋からにおい立つ香りも、もうここにはない。君たちはまた別の場所で、食べ、笑い、寝、働き、愛し合うだろう。それはここでの生活と同じようで、異なるものだ。でも変化することを恐れることはない。

さあ君たちも巣立ちの時間だ。君たちが去っても記憶はここに留まり続けるだろう。再生できるデッキのないビデオテープのように、ただここにあり続ける。君たちのことは、僕が覚えている。

(たろ)

桃山南口にて

小学校2年生から4年生くらいまでの間、時たま学校を午前休みして通った小さな診療所がある。

といっても病気だったわけでも虚弱体質だったわけでもなく、 母に連れられるがままひと月かふた月に一度、 出町柳駅から京阪本線に乗り、中書島宇治線に乗り換えて桃山南口のN医院に通うのがある種の習慣であった。

N医院は個人の小児科医院で、N先生1人と日替わりの看護師さん1人いるだけの小さな診療所なのだが、 建物は平屋の大きなお屋敷でお宅の一部を診療に使っていたようだ。 お庭には侘助や乙女椿といった低木が生えていて、帰り際に一輪ハサミで切って持たせてくれたりもした。

N先生は初めて会った頃から既に一般的な定年の年齢は越していて祖母と同世代のはずだったが、 黒々とした短めの髪にパーマをかけ、小柄ではあるが細すぎない身体に白衣をまとい、 何を言うにせよ簡潔でスッパリ断言するような物言いが幼心に心地良かった。

N先生と母、そして私は親類関係であったが、様々な事情で公な付き合いはしづらい、といった背景があり それでも何らかの形で接点を持つべきであると母は考えたのだろう。

当時の自分が、諸事情をどれくらい理解できていたのかは定かでないが 子供ながらも、何か意味のある事柄であることは合点していて、 母とN先生と私が共犯者として秘密裏に時間を共に過ごしていることに緊張感と強い結びつきを感じていたのだった。

そんな関係も思えば2-3年というごく短い期間だったようだ。 中学受験で忙しくなるにつれて足が遠のき、そのまますっかり会わなくなってしまった。 いつの間にか先生は亡くなり、そのことを知ったのも随分後の話だ。

数年前、京都に帰省したついでに桃山南口の駅に降り、N医院を見に行ったことがある。 駅の近くにあった大きな歩道橋は老朽化で撤去され、たまにお菓子を買った個人商店も別のお店になっていたが、 N医院は昔と変わらずそこにあり、お庭も定期的に手入れされてるようだった。 それでもかつての機能を失ったお屋敷はよそよそしく、静けさだけが満ちていた。

なぜN先生のことを書いているのかというと、それは意外な形での再開がつい2週間ほど前に訪れたからだ。 東京に訪れた母から、お土産と一緒に「粗品 N」と書かれた箱を渡された。 母曰く、私が結婚する際のお祝いにとN先生から預かっていたとのこと。

箱の中に入っていたのは、淡いピンクに花の絞りが入った風呂敷と、先生の名刺。

(みな)

琵琶、枇杷、びわ

夫と二人で、リレーエッセイの真似ごとのようなものを始めよう、という話になりました。 以前からこの手の話は何度かしていたのですが、なんとなく機が熟したような気がしてアカウントを開設しその勢いで書いています。

夫との共通点は、相違点と同じくらいあるけれど 最も重要なことのひとつは「読むこと・書くことに喜びを感じるタイプの人間である」ということなのだと思います。

ここで書かれる予定のものの多くは誰にとっても役に立たないし、私が(あるいは夫が)なにか重大な事件を起こしてその精神の出自を分析されるような機会がなければ、きっと誰の目に触れることもそうないでしょう。

従って、定期的に投稿する必要もなく数字を追いかけることもしないだろうけれど、 つらつらと思ったことを残せる場があるということは、 静かな祈りを続けるような喜びと安らぎをもたらしてくれる気がするのです。

ブログのタイトルは、武田百合子さんの『ことばの食卓』「枇杷」から拝借しました。 どうということない日々と、日々の中に潜む悲喜こもごもを予感させるようなタイトルで気に入っています。

先程夫が入力してくれたアカウント画面を見てみたら『琵琶を食べていたら』となっていました。 僧侶が琵琶を齧る画はそれなりに面白くて、たまに奇々怪々な文章を載せてもいいなと思いました。

(みな)