Godotを待ちながら

私は、多くのせっかちな関西人同様、待つのが好きではない。 1時間待つローカル電車より、3minおきに来る山手線の方がいいし 2時間待ちがざらなテーマパークより、さくさくアトラクションを回れる遊園地の方が好きだ。 マックはモバイルオーダーで待ち時間を極力減らしたい。

人は何かを待っている間、大抵は待つ対象に対して直接介入することができない。 ただ、その時が過ぎるのを、ぼんやりと、あるいは本を読んだり仕事をしたりしながらやり過ごす。 待つという行為が、どこか受動的で消極的なニュアンスを帯びているのはそのためだろう。

先日、夫と2人で映画『ドライブ・マイ・カー』を観た。

『ドライブ・マイ・カー』あらすじ 舞台俳優であり演出家の家福(かふく)は、愛する妻の音(おと)と満ち足りた日々を送っていた。しかし、音は秘密を残して突然この世からいなくなってしまう――。2年後、広島での演劇祭に愛車で向かった家福は、ある過去をもつ寡黙な専属ドライバーのみさきと出会う。さらに、かつて音から紹介された俳優・高槻の姿をオーディションで見つけるが…。 喪失感と“打ち明けられることのなかった秘密”に苛まれてきた家福。みさきと過ごし、お互いの過去を明かすなかで、家福はそれまで目を背けてきたあることに気づかされていく。(映画『ドライブ・マイ・カー』公式サイトより)

そんな家福が映画の序盤で演じていたのがサミュエル・ベケットの戯曲「ゴドーを待ちながら」である。 残念ながらこれまで接する機会がなかった(戯曲や演劇の基礎的な教養は身につけたいものだ)のだが、先日のアフター6ジャンクションで「ゴドーを待ちながら」の新訳にまつわる話が取り上げられていたのが中々興味深かった。

ちなみにゲストで出演されていたベケット研究者の岡室美奈子先生は、司馬遼太郎の愛蘭土紀行に通訳の留学生として登場されている。数年前に本書を読んだ際、興味本位で「司馬遼太郎の本に出てきた女子学生いま何をしているんだろう?」と調べたら立派に早稲田大学演劇博物館館長になられていて、以来Twitterを追いかけていたのでラジオでお声を聴けたのはまた嬉しかった。

ゴドーを待ちながら、のあらすじはこうだ。

ゴドーを待ちながら』は2幕劇。木が一本立つ田舎の一本道が舞台である。 第1幕ではウラディミールとエストラゴンという2人の浮浪者が、ゴドーという人物を待ち続けている。2人はゴドーに会ったことはなく、たわいもないゲームをしたり、滑稽で実りのない会話を交わし続ける。そこにポッツォと従者・ラッキーがやってくる。ラッキーは首にロープを付けられており、市場に売りに行く途中だとポッツォは言う。ラッキーはポッツォの命ずるまま踊ったりするが、「考えろ!」と命令されて突然、哲学的な演説を始める。ポッツォとラッキーが去った後、使者の少年がやってきて、今日は来ないが明日は来る、というゴドーの伝言を告げる。 第2幕においてもウラディミールとエストラゴンがゴドーを待っている。1幕と同様に、ポッツォとラッキーが来るが、ポッツォは盲目になっており、ラッキーは何もしゃべらない。2人が去った後に使者の少年がやってくる。ウラディミールとエストラゴンは自殺を試みるが失敗し、幕になる。(Wikipediaより)

要するに、ウラディミールとエストラゴンの2人はゴドーを待ち続けるも、ついぞゴドーが来ることはない。ゴドーが何者であるか、なぜ2人がゴドーを待っているのかも明かされない。そのため、不条理劇の代表作と言われている。

岡室先生曰く、ゴドーを待ちながらは、絶望的な物語、死に向かう物語、と称されることも多いという。 「しかし、別の捉え方もできるのではないか?」という思いが(前の翻訳から半世紀経っていて現代の感覚との乖離が激しいからというのも理由として上げていたが)先生を新訳の執筆に駆り立てた。 「ポゾーとラッキーは、第一幕では支配者と被支配者という関係でした。しかし第二幕では、ポゾーは目が見えなくなってて、ラッキーは喋れなくなっている。それは不幸なことなようで、しかし2人は支配者と被支配者という関係を脱してより人としての関係性を結べたのです(大意)」 さらに話は、上演されてきた土地に移る。 「ゴドーを待ちながら」は紛争地や災害が起きた場所で上演されてきたという。戦争や災害は、とりわけ市民にとっては、不条理極まりない出来事だ。 どうにもならない、待つしかないという状況において、待ち続けるというその行為そのものに、希望を見出すこと。アクティブであることが美徳とされる社会において、アクティブでないことに強さを見出すこと。解釈の余地は複数残しながらも、宇多丸さんや日比さんとのとの掛け合いにおいてこのような主張を軽やかに展開されていたのが印象的だった。

ところで「ゴドーを待ちながら(原題En attendant Godot)」の「ゴドー」はGod(神)と解釈されることもあるようだ。その主張通り無粋を承知でタイトルを置き換えるとすると「神を待ちながら」となる。実際、聖書の中でも「神/主を待つ」人々は頻繁に描かれる。

イザヤ40:31 もし神を待つなら、神は私たちの力を新しくしてくださいます。

詩篇37:9  悪を行なう者は断ち切られる。しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。

そしてただ「神/主を待つ」ことは辛い。神を信じること=待つことなのだろうけど、それでも「神/主を信じる」以上に「神/主を待つ」という言葉は切実で、苦難と忍耐を伴うことであるような気がする。

ローマの信徒への手紙 5:3 わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、 練達は希望を生むということを。

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先日、「Mさんが帰天されました」というLINEが母から届いた。 Mさんは、私が小さい頃に通っていた教会で知り合った女性で、母よりは4つか5つ年上のクリスチャンだった。上京してからは一度も会っていないが、折に触れて合格祝いや結婚祝いを贈ってくれる律儀な人だった。母とも長く親交を深めてくれていたようだ。

最後の数時間、Mさんは息子のT君、数人の親しい友人(母もこの中にいたそうだ)と共に過ごしたと聞く。闘病期間は辛いことも多かっただろう。それでも信心深い人だったから、天に帰るその日まで、希望の灯が彼女をわずかでも照らしてくれていたのなら、と願う。